これは、馮志強老師が陳発科老師の陳式太極拳と胡耀貞老師の心意拳(心意六合拳ともいう)の神髄を会得し、新たに老若男女を問わずに主に心身の練氣を目的に、創生したものである。


特 徴


 太極拳の套路を利用しつつ形に捕われず、丸く円を描く動作を多用することにより、心意混元氣功を養うところに有る。


馮志強老師


 馮志強老師は、1928年河北省に生まれ、5才のときより武術・気功の世界にはいる。18才で胡耀貞老師に出会い、弟子入りし、心意拳を学ぶ。さらに、胡耀貞老師の友人である、陳家溝十七世・陳発科老師に出会い、陳式太極拳を学び、現在、陳式太極拳十八世、胡耀貞伝統気功伝承者として、活躍中。
 また、内功として心意拳、太極拳の基本功の心意気功と太極拳纏絲功から太極混元気功を創設、普及に当たる。

太極拳考

 
 太極拳は、その字の通り「中国拳法」で、初期には人と戦うために編み出されました。そして、それに高度な武術理論と思想が結びつき現在の形になりました。そのため、これを修得する内にきわめて大きな滋養効果が得られるようになりました。そして、現在では、その優れた滋養効果のみ大きく着目され、いつしか健康体操のように、思われるようになりました。しかし、それによって、太極拳が拳法である側面が失われた訳ではなく、正しく修得することによって「拳法」としての面も十分に生きてくる事となります。そしてその事は、気功としての高い効果を得るためにも必要なことなのです。
 現在、太極拳を学ぶ大多数の人は、気功(動功)としての面を重視するあまり、拳法としての面が薄くなりすぎ、太極拳が、実践では役に立たない物と思っています。いや、それどころか、実践に役立つ「拳法」である事すら、知られなくなってきています。一見、その事は重要なことには思われないかもしれません。
 しかし、太極拳がその優れた滋養効果を生み出すには、その武術理論と思想が必要となります。そしてそこで行われる、気功は、体内における気の流れを整え、さらには気を養います。その為には、気が体内を正しく流れ、また、外の自然(宇宙)の気と調和していることが重要になります。
 太極拳の武術理論には、自然と調和した動作、身体に無理を与えない自然で合理的な動作があります。この気功と武術理論の一致が高い滋養効果を生むのです。
 一般的に拳法の動作には、明確な目的があります。そしてそれは自由に無限に変化していくこともできます。この明確な目的には、気の流れに目標を与え、意志と気と肉体の一致した動作を醸し出します。また、自由な無限の変化には、気の流れに柔軟性を与え、固定された意志を解放し、肉体の緊張をほぐします。すなわち、リラックス・アンド・コンセントレーションが得られることになります。
 そしてこれは、心身に高い滋養効果を生み出すことになります。ただしこれは、拳法としての動作が正しくできたときに高い効果を生み出すのであって、正しくできていないときは、単に体操としての効果しか得られないでしょう。
 そこで、問題となるのが、どうしたら「正しくできているか」を知ることです。太極拳を形だけに求めれば、正しくできたかどうかは、動いた角度が正確か、動作の順番などが正しいか、等から知ることぐらいしかありません。しかし、それでは、本当に気が正しく動いたかどうか(気功が正しく行われているか)を知ることは出来ないのです。
 では、どうしたらいいのでしょうか。そこで太極拳の武術としての側面が重要となります。
 例えば、相手が突いてきたとします。そこで太極拳の「起勢」と言う動作で、相手の拳を受け流したとします(化勁)。もし、動作に気が伴っていなければ、相手の拳を受け流せずに打たれてしまうことになります。そうかといって、受け流すことが出来て、形が一緒(起勢)であれば、何でも良い(力んで動いたり、スピードに任せたりしては、普段の練習とは異なることになります。)という訳ではありません。普段の套路のときと同じように、力を抜いて緩やかに動き、そして相手の拳は受け流されていき、自分の姿勢は崩れていない状態で、初めて正しくできたといえるのです。
 このようにして、正確に観察、実験しながら行うことで、正しく修得することが出来ます。
 太極拳における、武術的要素と、滋養効果は切っても切れない関係にあるのです。
 気功に「自発動功」と言うのがあります。これは、体内より起こる気の流れに、身体の動作を一致させることにより、自然な身体の動きを知り、リラックスを会得するところを目的とします。しかしながらここには、大きな問題があります。身体の正しい動きを知らない人が、自由に動こうとすれば、それはかなり恣意的な物になるか、発作と衝動によって動くことになるでしょう。これは、わざわざ身に付けた、意志のコントロール(理性)を手放すことになります。そしてその結果、精神に悪影響を及ぼすことさえあるのです。
 太極拳における自由さは、拳法としての基本に則った中で行われます。それにより、自然で合理的かつ理性的な中で、無限の自由性を表すことが出来ます。例えば、水泳をした事がない人に、「自由に好きなように泳いでみなさい」と言ったところで、その人の能力を伸ばすこともできなければ、その人自身が自由を獲得することすら出来ません。ところが、泳ぎ方の基本を教えたところで、「自由に好きなように泳いでみなさい」と言えば、その人は自分なりに、自由に泳ぐことが出来ますし、その人の目的を聞き、アドバイスをしながら泳ぐなら、その人は自分自身の能力を向上させ、また、より高い自由度を得ることになるでしょう。その人は、基本というある意味での制限を受け入れることで、より大きい自由度を獲得することになるのです。
 太極拳にしても、気功にしても、気ままに気持ちがよいことだけを求めて行っても、上記の通り得るどころか、危険性すらあります。正しく行うには、基本功という規制の中で、身体の都合の悪いところを修正し、その後に自由に行うことが肝要となります。


動 功
気功の内で、身体を動かしながら、気を養う方法。体を動かさない「静功」と言われるものもある。

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